疲労凍死とイグルー

ある日のイグルー
猛吹雪明けのイグルー。ブロックの隙間は勝手に埋まり、雪見だいふく。

疲労凍死

雪山で死に至る要注意な危険の一つ「疲労凍死」は、バテて動けなくなり、死んでしまう事故です。何かの要因で体力の限界になってしまったら、体幹の温度が下がり(低体温症)、本人は歩くことも思考することも難しくなります。パーティーの一人が動けなくなったとき、置き去りにできず全員が動けなくなり体温が下がります。悪天の雪山で長時間動けないということ自体が非常に危険なことです。

メンバーが低体温症で行動不能になったトラブルは私自身は幸い経験がありません。が、私がイグルーにこだわる事になった理由は、ある低体温症による疲労凍死事故が大きく影響しています。

北大の知床遭難

2006.3知床岳付近でイグルーを作り、2つ玉低気圧を迎え撃った。イグルーはまるごと埋まり、写真の足元に。79年の先輩はテントだったため埋められてしまった。

1979年3月、北大山岳部の知床遭難事故がありました。4,4,3,1,1年目部員(留年が多いので年生ではなく年目といいます)のパーティーで岬を目指す2週間の縦走計画でしたが、途中強い2つ玉低気圧の暴風雪でテントが潰され、徹夜で何時間も雪かきをしていた上級生3人が相次いで疲労凍死しました。知床は標高こそ低いのですが、海岸線からほぼ樹林限界で、半島自体が白い山脈と化すのです。それほど気候の厳しいところです。

私の居た1980年代、この遭難の影響を受けて北大山岳部では、悪天のとき逃げ場のない場所でテント泊をしないことに計画の検討方針を決めました。しかしそれでは日高もヒマラヤも行けなくなってしまいます。経験が積めなければ更にできることが少なくなってしまう。

そんな中で私が5年目になったとき、はるか昔に北大で発達しながら、便利なドームテントの登場で廃れていたイグルー技術を、もう一度見直してみたいと思いなおしました。そして三つのイグルーを進めて三回の悪天を迎え撃ち、中部日高の縦走計画を貫徹することができました。

1902青森歩兵連隊の八甲田。1962北海道学芸大の大雪旭岳。1963愛知大の薬師岳。もし、暴風雪の中で何時間も為すすべのなかった数多の遭難者たちがイグルーの技術を身に着けていたら、と空想することがあります。朦朧とした遭難者の彷徨は、暴風雪の中、ほとんど距離を稼げずに数時間続きます。イグルーは積雪50センチの吹き溜まりがあれば40分で作れます。ただ、作ったことがなければ、とても作れるとは思えません。

そしてノコとスコップとその積雪がなければ、やはり作ることはできない。

先週起きた、白山の遭難

2021.3別山から白山へ向かう。木の生えない真っ白な領域は悪天のとき、白い闇になる。

今週は、11月24日に白山であった疲労凍死事故の詳細記録を読んで、心がずっと囚われていました。チームは過去の記録を読む限り経験も技術も体力も十分な面々のようでしたが、その本質的な「スピード」が仇になったのかもしれません。小さな弱点が大きな違いになってしまった。これほど鍛錬していた人たちでも、その方法だけでは越えられなかった。

通常、遭難直後は当事者でなければ詳しい情報は無いので詳細記録を読む前には予断を口にしないようにしていますが、最近は時間が経っても責任を持って発表する人は多くありません。今回は常々記録を出していた人でもあり、非常に早くに詳細を読みました。こうして遭難の詳細を、時間をおかずに読むことで実に様々な思索をします。

我が身、我が家族、我が共同体、我が事として。

山行記録: 白山(遭難事故)
2021年11月24日(日帰り) 白山, 山滑走 / YSHRの山行記録

 

コメント

  1. 山下一雄 より:

    今回の白山での遭難事故は非常に痛ましく、登山を行うもの全員が一読すべき記事であると思います。
    しかし、それと同時に彼らの行っていた山行は非常に危険であったという事も、併せて認識されるべき事でもあります。

    ・明らかな悪天候時においても、平気で山に入る
    ・パーティー登山でありながら、出発や下山も単独での行動
    ・速攻スタイルでリスク管理に疑問が残る

    何よりもお亡くなりになられた方は、雪山へのブランクがお有りであった。
    ベテランのYSHR氏であれば、考慮の上、行動をすべきであり、個人としての技量は高くと、リーダーとしては足りない所があったということ。

    自分を中心として人が集まり、一つの山行となっているのであれば、グループを率いる者としての自覚を持たなければいけません。

    山は自己責任という一言で済ませれる出来事ではないという事を、改めて考えなければいけません。

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