こんにちは、イグルスキー米山です。
技術的な話が続いたので、違うカテゴリーでも始めてみようと思います。
今回は、なぜ私がイグルーと出会い、 ここまで深入りしたのかの話です。
北大山岳部は究極の登山学校
北海道大学は、山が好き、自然が好き、動物が好き、虫が好き、樹木が好き、焚き火が好き、 馬が好き、遠くへ行きたい、寒冷地が好き、雪が好き、赤フンで寮歌放吟したい(稀少?) という学生が、厳かに北極星を仰いで日本中から集まってくる大学です。高校生が判断するのだからだいたい、その雰囲気わかりますよね。 おそらくそのため山登りのクラブがたくさんあって、 しかもどこも充実しています。山岳部、山スキー部、ワンゲル、 探検部、どこも部員が20人くらい居て、 しかも活動内容も大マジです。本州と違い、道と山小屋が整備されたルートは少ないので、年間100日、 登山道なんてほぼ歩きません。冬は山スキー、夏は沢登りです。1912(大正元)年創立のスキー部から 1926(大正15)年独立しました。
平成期を通して全国的に大学山岳部が人数を減らす中、 北大と信州大だけは山岳部員が絶えなかった理由は、 学生に占める山好き人口の割合が多く、雪山が近いためと思います。 東京や大阪は、 人は多いけど山好き学生の割合が多くないのかもしれません。北大は現在も部員はずっと20人前後を保ち、生涯の資産になるかけがえのない登山経験を積んでいます。日本で最も恵まれた大学山岳部環境だと思います。
北大山岳部がイグルーのふるさと
北大山岳部は、 1943(昭和18)年のペテガリ岳厳冬季初登の際、対米戦争の戦況悪化前の最期のチャンスに、目立たないように少ない物資で軽量速攻作戦で成功させました。その時、初 めてイグルーを使って日高最期の難関未踏峰の登頂に成功した歴史があります。奥深い北海道の山で培った軽量、現地調達の長期間山行の伝統に、当時交流のあったイタリア人留学生のフォスコ・マライーニ氏のヒントが生み出した技術でした。
ところが 戦後はテントが軽量化され、ヒマラヤ登山の影響により物量登山傾向になって、すっかりイグルー実用の伝統からはなれていきまし た。
1979(昭和54)年3月、北大山岳部では知床で、 悪天の猛烈な風雪でテントがつぶされ、ずっと雪かきをして疲労凍死し、三人を失う死亡遭難事故がありました。 その影響でずっと、 「悪天で逃げられない場所にテントでは泊まれない」という計画の 検討方針が続きました。部員の山行計画は、現役部員たち自身によって、毎日何時間もかけて検討されます。北大山岳部にはコーチや監督やOBの運営参加は一切ありません。
私の入部が1984年。なかなか真っ白い中部日高の長期山行計画を認められることができませんでした。 それでも中部日高山脈の長期縦走計画では、 「逃げられない天場」は避けられません。
テントじゃ信用できない、危ないテン場に泊まるんだ
5年目の時についに、「 ならばイグルーならいいだろう!」と、 テントの限界を打ち破る形でイグルー山行を実践しました。 ペテガリ岳の山頂に特大、 二重壁の要塞のような「ペテガリ城天守閣」を築いて、 低気圧の直撃を迎え撃ちました。
安眠です。嵐はどこへ行った? そしてこんな絶景の天場で、 メンバーがチーズフォンデューなんか作ってくれました。 夕景に赤く輝く神威岳を見ながら、私は革命が起きたと感じていました。その山行では、北上して1599峰のコルと、その先コイカクシュサツナイ岳の山頂にもイグルーで泊まり、そこでも強い低気圧をやり過ごし、1839峰を往復しました。ちょうどこの日が昭和最期の日、昭和64年1月8日でした。知床遭難以来10年。重い重い影響をようやく抜け出すことができたと思いました。
イグルーは時間をかければまあできます。2時間、3時間。でも、山で実用にするなら、テントと同じくらいの所要時間でできないかな、と考え、その後、割と気長に続けてきました。雪の状態次第で、早いときは早いのですが、いつもではない。
多くの人はそれほどイグルーにこだわらないのですが、私はこの「テントいらずの手ぶら式」に強い魅力を感じました。不可欠と思われた登山装備を一個置いていくたび、とても自由な気持ちになったからです。
今日はここまで。またね。
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