南極観測隊1960の吹雪・木崎甲子郎氏のこと

イグルーと本

こんにちは、イグルスキー米山です。

南極観測隊は山岳部員だらけだった。

いま、南極で冬を迎えようとしている日本の観測隊の隊長・澤柿教伸氏は、イグルスキーの、北大山岳部時代(1980年代)の仲間です。1957年の第一次隊から続く観測隊員には、北大山岳部の出身者がたくさんいます。何故かって皆、山登りをしたくて大学に行き、山登りをしたくて研究分野を選んだ人が多いからです。それに寒いのが大好きなので。それに当時の南極には、人類にまだ存在が不確かな領域さえあり、測量もされず名前も無く標高も不確かな山脈があり、足で歩いて行くしか無い時代です。これは山岳部員なら行きたいでしょう。

1960年のブリザード遭難

その澤柿氏からの便りで触れられていましたが、基地の近くには日本の南極史で唯一の遭難死者、福島紳氏の碑があります。1960年、猛吹雪の基地周辺で遭難があり、毎年この碑の前で黙祷するとのこと。

基地のすぐ近く(わずか50mほど)にあった観測設備を悪天のなか確認しに行っただけで帰って来られませんでした。猛烈な吹雪は風速30m/s、視界は10m以下になるほどでした。捜索に向かった二人ずつ二組の四人も行方不明になり、一晩穴を掘ってしのいで翌日天候が回復してから帰りました。

このときの一人に山岳部の先輩で地質研究者の木崎甲子郎氏がいます。木崎さんの後の著書によれば

「わたしたちや吉田・村石が生きて帰ってきたのは、『しまった、間違った』と思ったあと、穴を掘ってもぐりブリザードがやむのを待つことができたからだ。また、学生時代、山岳部の生活でそういう訓練を受けていたからでもある。福島にはそういう経験はまったくなく、おそらく、風に押されるままに流されて、絶望して凍えてしまったのであろう」「もう一日ブリザードが続いていたら、われわれだってどうなっていたかわからない」(南極航海記1982刊・p124より)

と書いています。

1982年刊。1979-80年の隊長として再訪時の随筆。1960年の遭難時の話や、やまと山脈への長距離遠征の話など。

吹雪の中から生還する力

私が山登りを愛好する一番芯の部分に、「厳しい自然の猛威から、なんとか生きて帰る力」への憧れがあります。風速30m/s を超えるような状況でも穴を掘れる雪の場所を探しだすこと。そのためにスコップとノコギリを持っていること、敵わない天候には抗わず氷雪の中で体温を保ち何が最適なふるまいかを判断し続けること。これは週末登山ではなく、長期の山行を数多く経験しなければ据わらない胆力ではないでしょうか。

木崎氏は1924年生まれ。軍役を終え1946年に旧制の予科に入学、物資無き動乱の時代、戦中にペテガリ岳初登までで滞っていた厳冬期日高山脈探検を再開させ、1948年2月イドンナップ岳の冬季初登者です。1949年以降に新学制が始まった時代、旧制最後の世代の木崎さんのリーダーシップで北大山岳部は戦前の活気を続けられたと聞きます。

南極、ヒマラヤ、琉球島弧の地質学研究者として活躍し、今年の2月26日、長く住んだ沖縄で97歳でなくなりました。私は一度もお会いする機会がありませんでしたが、山岳部と地質学講座の先輩として、長く長くお付き合いを感じる方でした。

きょうはここまで、またね。

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